蓮の花の本質と曼荼羅アート

水彩曼荼羅アートWS 極楽寺

仏さまはなぜ「蓮の花」に座していると思いますか?
先月から水彩曼荼羅アートワークショップをスタートし、念願の極楽寺さんでの開催もできました!
これまでのいきさつとあわせて、直感で知り得た「蓮の花の本質」について書いてみたいと思います^^

感じるままに描いてあらわれた「蓮の花」

3~4年前から、魂で感じるままに描く、というのをやっていて、度々あらわれていたのが花、とくに蓮の花ようなモチーフでした。
蓮の花を描こうとしたのではなくて、描いてみたら蓮の花のようになった、というもの。

それらを描くときに感じていたのは、あふれんばかりの光。

ソウルアート 蓮

両界曼荼羅の意味するところ

今年の4月に高野山を訪れました。
高野山は、空海が開いた真言密教の修行の地。

高野山

8つの峰に囲まれた、標高800mほどの盆地にあって、「蓮の花が開いたような地形」と言われています。

滞在した宿坊で、空海が唐から持ち帰った「両界曼荼羅」について書いてある資料に、目が留まりました。

この両界曼荼羅がどうにも気になって、帰ってからも調べてみました。
描かれている仏さまを詳細に語ったものばかで、なかなか本質をつかめないでいたけれど、
それぞれの曼荼羅の性質をぎゅーっと凝縮して一言でいうと、
 胎蔵界曼荼羅⇒「肯定」
 金剛界曼荼羅⇒「弁別」

になるということがわかってきました。

学問的に正しいかはわからないけど、
 胎蔵界は、全てを受けいれる「陰/女性性」の世界観
 金剛界は、意思で成し遂げる「陽/男性性」の世界観

と、捉えると理解しやすい気がします。

そして、
 胎蔵界曼荼羅は「水平」
 金剛界曼荼羅は「垂直」

の世界観で描かれていて、ふたつ重なると【立体】になる!
しかも、東西南北が微妙に一致しないことで反発の力が生まれ、回転している!

と知り、「おぉーーー!」ってひとり興奮してました。(笑)

蓮の花に座す仏さま

私が描いた「蓮の花ような絵」を思い返すと、
 同心円状に花びらが拡がるのを、上から見た絵
 光の柱と一体になっている花を、横から見た絵

大きくふたつに分けられることに気付いたんです。

それぞれの絵のエネルギーを感じてみると、
 同心円状の花の絵⇒ただただ無限に拡がる慈愛
 光の柱的な花の絵⇒地に根差した曇りない意図

やっぱり、「陰/女性性」「陽/男性性」と言えそうです。

物質として顕現する前に、まずエネルギーが在る、
ということを踏まえると、
「陰/女性性」「陽/男性性」を統合したエネルギーが
地上で植物として顕現したのが蓮の花、と言えるかもしれません。

宇宙の中心で慈愛を拡げながら、
地上のいのちとして生きる存在。

生きて地に根差すから、球体ではなく、蓮の花のようになる。

仏さまは蓮の花に座す姿で描かれます。

一般的には、蓮は「泥より出でて泥に染まらず」ということわざがあるように、「清らかさ」を象徴するとされますが、蓮が描かれるのはそれだけが理由ではないように思います。

個人的な直観から受け取った答えではありますが、
「光の柱(=仏の身体)」と
「同心円状に拡がるエネルギー(=蓮の花)」は
統合されている
から、一体のものとして描かれるのではないでしょうか。

「尊い存在だからお座布団に座っていただこう…」などと、後から蓮の花を加えたのではないはずです。

慈愛にあふれた人って、蓮の花のようなオーラを纏っている感じがしますしね!

曼荼羅のプラクティス

密教の曼荼羅について調べるうちに、チベット密教の、曼荼羅による修行法に行きつきました。
それは、曼荼羅に描かれている仏さまを、一尊ずつ心に描いてそれと同化する、という内容でした。

意識のコントロールに精通して、さらに仏さま一尊一尊を詳細に知ってる必要があるから、本格的に学ばないと実践できそうにありません。

もっと直観的に曼荼羅のエネルギーに同調できる方法はないかなぁと思った時に、蓮の花のような絵のことを思い出しました。

「蓮の花の曼荼羅」!!

蓮の花の曼荼羅を描いたり、眺めたりすることで、陰陽統合したエネルギーを、内に響かせるというアイデアがやってきたんです。

さっそく、手元にあった透明水彩で曼荼羅を描きはじめました。

曼荼羅アートに救われた話

曼荼羅アートをはじめてしばらくしたころ、感情を揺さぶられる出来事がありまして、、、
ある方に憤慨して、気持ちが納まらなくなっちゃったんですね。

そのとき、自分の描いた曼荼羅を眺めて、蓮の花のようなエネルギーの中心に自分が立っているのを感じてみたんです。

そうしたら、憤慨していた自分自身とも、相手の方とも、心の距離をとることができて、すっと気持ちが落ち着いていって。

しかも、相手の方の心境を察して、慈愛のような気持ちまで湧いてくる…。(仏か、笑)

相手を変えようとしなくていい。
自分すら変えようとしなくていい。

自分の中心、宇宙の中心に、ただ「立つ」だけでいいんですね。

曼荼羅アートは、自らの座す蓮の花。
これは、みんなと分かち合う値打ちがあるんじゃないかと思い始めたわけです。

新しい曼荼羅アートの研究

そこから、技術的な試行錯誤がはじまりました。
繊細な花びらの重なりは、やっぱり透明水彩で表現したい。でも、透明水彩で曼荼羅を描くという事例はかなり少ない。

何度も実験してたどりついたのが、自作の「グリッドテンプレート」です。
テンプレートを使ってガイドとなる点を打つことで、境界線を描くことなく、色彩だけで曼荼羅を表現できるようになりました。
この方法を確立できて、だれでも全方向バランスよく描ける美しさと、描くたびに違う曼荼羅になる自由さが両立しました。

水彩曼荼羅アート

ちなみに、アイデアとして受け取った時点では「蓮の花の曼荼羅」でしたが、「蓮の花らしい」曼荼羅であることにはこだわっていません。
蓮の花として物質化する以前の「エネルギー」の方が大切だと思うからです。

そして、私の提案している水彩曼荼羅アートは、同心円状に拡がる花を模したようなものですから、構図としては「陰/女性性」です。
と同時に、グラデーションによって奥行きが生まれるため、自己満足の粋ですが、陰陽を統合した「立体感」を感じられる気がしています。

水彩曼荼羅アート

曼荼羅アートをワークショップへ

描くことは、それを人に見てもらうとか、評価されるとか、そういったことの前に、ちょうど「呼吸」のように、生命の基本的な行為だと思っています。
世界が内に入ってきて、何かしらが世界に出るのを見届けるのは、生きるのになくてはならないようです。

呼吸を感じる瞑想のように、描くことでいのちの息吹を味わうような場を、私は整えたかった。

そして、6~7月にかけて、アトリエで2回、オンラインで1回、極楽寺さんでも1回、WSを開催させていただきました。

曼荼羅の一葉一葉を描くという単純な動作は、一定の「リズム」を生み出します。
それはオンラインでも伝わり、各回、みなさんの「リズム」が響き合って、意識の深い所へと誘われたような感覚がありました。

自由に描く「ソウルアートワークショップ」は、これまで回を重ねてきましたが、この「リズム」はソウルアートにはない味わいだと感じました。

みなさんからは、集中して没頭できた、心が整った、リラックスできた、静かに自分と向き合えた、などといった、瞑想的な側面への評価をいただきました。
ただ存在することの幸福感を感じてもらえたなら、願ったり叶ったりです。

さらに、描くことができたことへの喜びの声もありました。
絵に苦手意識をお持ちだった方も含めて、楽しく夢中になって描けた、気持ちよく描けた、自由に描ける感覚があった、などと言っていただき、絵をはじめるきっかけになった、とのお声もいただいています。

座して沈黙する瞑想と違って、「描く」という行為は外の世界に働きかけて、何かを表現します。
表現されたものは、「弁別」の対象になり得ます。
それでも「全てを受けいれる」姿勢でいつづける。

みなさんがご自身の描かれた曼荼羅を「肯定」して持ち帰ってくださるのは、やってよかった、と思える瞬間です。

「自分が見たい宇宙」に没頭してみませんか?

ワークショップに参加して、ご自身の曼荼羅アートから気づきを得てくださる方がいたのも嬉しくて。

曼荼羅アートは、
「宇宙の中心として、最高の宇宙を創造して、今ここで生きること」をサポートするヤントラ。

ワークショップを通して、宇宙創造の中心に居合わせられたら、主催者冥利に尽きます。

次回は8月28日(土)、リアル・オンライン同時開催を計画中。
タイミングの合う方、ぜひご一緒しましょう!