私が「私」を体験した話

縄文歴の節目である5月28日、私はひとりで上高地の森の中を歩いていました。
一番の目的であった明神池の奥宮の参拝をすませ、せっかくだからとさらに奥地へと歩みを進めました。

明神池 穂高神社奥宮
明神池より先の経路では、取り立てて名所と呼ばれるほどの場所はなく、奥に行くほど人もまばらとなります。
私の目はしだいに森の景色に慣れ、気を引くものがなくなってきましたので、意識は外の世界から自分の内へと移ってゆきました。
そのとき、いつもとは違う体験がありました。
「私」は
「内田晴香」を通して、
「私」であり
「私の創造物」である、
草木、土、山、空といった
自然の造形を観察して、
恍惚としていました。
同時に、
「内田晴香」は
いつもの意識に取って代わって、
「私」が主体となっていることに
気付いていました。
「私」は
意欲と平安さそのものでした。
人の行き交うところへ戻ってくると、そこで適応しようと「私」の感覚が薄らいでいきましたが、あのときの意欲と平安さは今も私とともにあります。
自然の造形は、それがあまりに完璧なために、偉大なるアーティストの存在を感じずにはおれません。
自然と調和して暮らした縄文の人々は、その気配をより身近に感じ、そして、その存在を「私」として認識して生きたのではないかと想像します。
自然豊かな地に身を置くたびに、私は「私」に戻っていくように思います。